本を前から読むこと

昨日、「本って前から読めばタクソ、後ろから読めばフォクソだね」って書いたんだけど、なんでそんなこと書いたかって言うと、ちょっと「違和感」を抱えたまま、年越したから。大晦日、除夜の鐘(http://www.jodo.or.jp/joya/)を60回くらいつっついてみたけど、「違和感」は消えんかった。

その「違和感」の源といえば、
三上さんが2006年12月29日に書いたこれ。http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20061229/1167384532

本を読むことは非常に複雑な経験であると感じている。普通の「本を読む」のイメージは全文検索に近いかもしれないが、・・・

とあって、何かがひっかかる、ってな気持ちになった。


年明けて、除夜の鐘を残り48回つっつきながら、いろいろ考えた末、こーいうことになった。
「パソコンにとって、全文検索ってのは、普通に本を読む*1ことに近い。でも、検索する人にとっては、本の後ろの方にある索引に行って、いきなり目的のページに飛んでいくことに近いんじゃない。」


ただ、本の前の方にある「目次」って何さ?ってのがずーっと気になっちゃったんだよね。そんで、いろいろと過去を振り返ってたら、UCLを思い出して、あーなったわけ。そんで結論からすれば、目次ってのは、本をトポロジックに変形した路線図みたいなもんで、一応ページ番号とか振ってあるけど、あきらかに索引とは違うよね、って感じで落ち着いた。


じゃぁ、本題の「本を前から読むこと」ってのは、どういうことなのか?


一応、目次ってのは、著者か編者が考えた「本の構造」だよね。そんで、本を前からじゅんぐり読んでいくってことは、その「本の構造」にしたがうってこと。だから、タクソノミーっぽいって思ったんだよね。


そんで、読んでる途中、

  • 書き込みしたり
  • 付箋くっつけたり
  • 耳折ったり
  • やぶったり
  • コピーとったり
  • 読書ノートつけたり

とかしてくわけでしょ。


なんでこんなことしてるかっていうと、「本の構造」が気に食わんから。素直に本読んでると、自分が解体されて、「本の構造」に従って分類されてっちゃう。それじゃ、本末転倒だよ、ってことで、必死に本の解体してるわけ。そんで、自分なりの索引みたいの作って、後ろから読めるよーに、改造してんだね。


三上さんは、http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20061217/1166361880で、

私は今まで記憶、記録してきた情報(蓄えた知識)をたえず私なりに分類しなおす、つまりタグ付けしなおすことによって、旧来の分類を脱構築してきたのではないか。

ってな感じで言ってて、自分が「主人」であることを確認してる。そんで、主人として、飼い犬である「本」をどうやってしつけてんのかってことで、いくつか写真で紹介してくれてる。(http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20061229/1167384532


というわけで、結局何が言いたいかって言うと、「本を前から読むことってのは、タクソノミーにのっかりつつ、タグ付けをしてるってことじゃないかな、って思うよ。図書館にある本には、書き込みしたり、耳折ったりしちゃいけなかった。だから、本に対するタグ付けってのは、基本的に個人的なもんで、フォークソノミーってなところまでいかんかった。でも、今後、電子化された本の画像に対して、みんなで書き込んだり、付箋くっつけたり、そーいうことをしてもよくなる可能性がかなり高い。そーすっと、全文検索+タグによって、ますます、本は後ろから読むもんになっていく、そんな気がするよ」ってこと。

*1:これって前からじゅんぐり読んでいく、ってことでいいよね?