やっぱり、「アナロジー(類推)で考えてはいけない」のかも

本日の要約:
電子化する目的ってのは、大きく分けて3つあって、保存目的、閲覧目的、「本が本を読む」目的。そんで、3番目の目的を理解するためには、「アナロジー(類推)で考えてはいけない」*1可能性が高い。



過去2回に引き続き、今日もスタートは、こちらのページで、”2−3.研究環境基盤部会 学術情報基盤作業部会 大学図書館等ワーキンググループ”の第1回目


まずは、この発言。

保存媒体としての紙は長年の実績があり、資料保存の保険的側面からの条件を満たしている。また、保存媒体については、物理的観点のみでなく、研究者の紙媒体に対する研究パターンや志向性も踏まえて対応する必要もある。したがって、全面的な資料の電子化には反対である。

「保存目的」(その名の通り、大切にとっておくため、本だと火事で燃えちゃうから、電子化したりすること)と「閲覧目的」(その名の通り、みんなで見るため、本だと一人が借りてると他の人が見えないし、わざわざ図書館まで行かないといけない、だから電子化しようってこと)が念頭にある。でも、「本が本を読む」目的(8月14日のエントリーを参照)に関しては、何も語らない。




続いて、こちらのページで、”2−3.研究環境基盤部会 学術情報基盤作業部会 大学図書館等ワーキンググループ”の
第2回目


こちらの発言も、「保存目的」と「閲覧目的」が念頭にあるが、「本が本を読む」目的に関しては、依然として何も語らない。

電子的に生産される資料が多くなればなるほど、利用可能な状態で維持する技術を研究しなければならないし、実際行われているところである。(中略)保存図書館を作り維持していくことのコスト、そのアクセスを保証するためのコストと、とにかく電子化し閲覧できる状態にするコストのどちらか高いか安いかということを考えなければならない。


どうして、第3の目的について、何も語られないのか?


いろいろあるだろうけど、そのうちのひとつの理由は、「電子化」を「アナロジー(類推)で考えて」いるからかな。


電子図書館」という言葉は、そもそも「図書館」というものの延長線上で考えてしまいがち。
前にも書いたけど、普通の図書館は、本を人に読んでもらうための施設だけど、電子図書館は、必ずしも人が読んでくれなくても良い、っていう割り切りが必要。少なくとも、米国では、割り切り組みが増えている(と思う)。


それじゃ、どうやって考えれば、アナロジーから離れられるか、ちょっと考える。


これまでに紹介してきた、「連想検索、NACSIS、青空文庫」の3点が一緒になったら、こんなサイクルが生まれる。

青空から文章の一部をとってきて、連想検索に入れる

連想検索が、NACSISから適当な本をピックアップする

ピックアップされた本が青空で文字化されてたら、そのまた一部を連想検索へ送る

これを繰り返していくと、「本は本を読み」、どんどん内容は分厚くなっていく。


さらに、(Myrmecoleonさんが、「ISBNをキーにネット書店と図書館つないだサービスができないか」ってことで、いろんな人の試みを紹介していて、こんな感じで、)ネット上での書評などもピックアップされて、上の「本が本を読む」サイクルに注がれると、さらに内容が分厚くなる。



つまり、

連想検索+NACSISのDB+青空+ネット上の書評=電子図書館の例

であって、しかも、読者なんていなくていい。




さらに、本の電子化っていうと、「全部のページをちゃんとやんないといけない」というイメージだけど、そんなこともない。例えば、目次と参考文献のページだけ電子化しちゃうだけで、「本が本を読む」サイクルは回りだす。



「現在の図書館が不要だ」と言っているのではなくて、今米国で着々と進んでいる電子化計画を理解するには、3番目の目的を理解する必要があり、「アナロジー(類推)で考えてはいけない」可能性が高いってことが言いたかった。


だから、電子図書館という言葉は使わないほうが良いんじゃないか、とまで考える。そうしないといつまでたっても、アナロジーの罠に陥って、「全面的な資料の電子化には反対である」というような議論に終始することになる。